グルの日の満月とインド,プネーのスワミ・アループ・クリシュナ

2018年7月27日

一九八〇年代後半に読んだ当時まだバグワン・シュリ・ラジニーシと呼ばれていた頃のOSHO本の中にはインド暦のバードラ月(西暦八月中旬~九月中旬頃にあたる)のグルの日にあたる木曜の満月の晩にOSHOの弟子の一人スワミ・ゴヴィンド・シッダールタが深夜の瞑想中、仏陀のアストラル体(第三身体)とOSHOが融合するビジョンを見た出来事が書かれていて、彼によるとそれが起こった時間帯は明け方の五時頃だったそうだ。
OSHOは一九八六年夏の満月の夜の出来事について、彼自身が仏陀のアストラル体と融合したのは紛れもない事実であって、それを公に宣言したのはスワミ・ゴヴィンド・シッダールタ一人であったけれども、他にも二人が同じビジョンを見ていたが口に出すことができなかったようだと語っている。そしてその当時の私は他の二人について何も思い浮かぶことはなかったけれども、最近になってそのことを思い出すとき、残りの二人の一人は、たぶんスワミ・アループ・クリシュナ(Swami Arup Krishna)と呼ばれる別のOSHOの弟子の一人であったのだろうと感じているのだ。私がスワミ・アループ・クリシュナに初めて会ったのはインド、プネーのOSHOアシュラム(現在はOSHO瞑想リゾートと呼ばれる)を初めて訪れた一九八九年十月の最初の夜の瞑想に参加したときのことで、この夜私はブッダホールと呼ばれていた一万人程が集うことのできる大理石の瞑想ホール(現在はOSHOグローブと呼ばれている)に入ってきたスワミ・アループ・クリシュナをOSHOと見間違えてしまったのだった。彼も白い髭をのばしていたが容姿は特にOSHOと似ているわけでもないのにOSHOと見間違えてしまったのは、このとき彼の全身からイルミネーションや光明といった言葉で表現できるような光のエネルギーが放射されていることが白い霊光のようなオーラと共にはっきりと感知されてしまったからだった。そしてその後、瞑想ホールに登場したOSHOに会うことでもう一人の光輝を放った人物に出会うことになるのだが、といってもこの時期のOSHOは光輝を放った人間というよりも肉体をまとった光のエネルギーの塊、または星(太陽)の塊といった印象で、その当時の私の受けたOSHOの印象はたんにエンライトメントやイルミネーションが起こった人といった言葉で表現できるような領域をはるかに超えてしまった超常現象が起こっている現場に立ち会っているようなものだったのだ。OSHOはよく中空の竹という言葉を好んで使っていたけれども、たぶんこの時期のOSHOの霊体は完全に中空の竹のような状態にあって彼の周囲に生み出されていた星の光のようとも言えてしまえるような超常的な光のエネルギーも、通常の彼自身の霊体が放っていた光以上のものであったのだろうと思う。
その三か月後にOSHOは肉体を去ってしまったけれども、アループ・クリシュナさんとはその後のOSHOアシュラムでの滞在中に時々見かけていて、それでも最初の頃は彼に話しかけることはせずに彼の近くにさり気なくたたずんだり、また彼が座っていたレストランの同じ椅子に彼が居なくなった後で座ってみたりといった程度であったけれども、しかしながら少し前まで座っていた彼の椅子に座るだけでも、彼の放っている光明のエネルギーをはっきりと感じ取ることができてしまったのだった。その後一九九〇年代の半ば過ぎ頃になってから、初めて彼に挨拶をして話しかけた私が最初に彼に聞いたのは、「あなたはいつ光明を得たのですか?」という問いに「生まれたときからだ」と冗談交じりの笑顔で返してきたけれども、アシュラム内にあった彼の部屋に案内された後、もう一度同じ質問をしてみると「一〇年前のことだ」とはっきりと教えてくれたのだった。
そしてこれは霊体の核で起こる魂の光輝としてのエンライトメントがまだ起こっていなくても、ある程度クンダリーニ・エネルギーが目覚めている人なら理解できると思うけれども、私自身最初のインド滞在三か月の間にクンダリーニの炎が燃え始めてからは大理石や花崗岩の壁でできたバスルームのような狭い個室に入ると自身の全身から放射されるエネルギーが石の壁に反射し、さらに四方の石の壁を通じて乱反射して自分のいる個室の中が光のエネルギーで溢れかえってしまうといった経験が起こり始めたのだが、アループ・クリシュナさんの部屋は床も壁もすべて大理石でできていたので、彼の部屋の中では彼自身の放つイルミネーションの光が部屋中乱反射していてそれ故に初めて彼の部屋に足を踏み入れた瞬間は光の海の中に足を踏み入れるような印象のものでもあったのだ。
私は時々彼に「あなたは多くの人の助けになる人なのだから写真に撮って紹介させてほしい」と頼んだこともあったけれど、彼はいつもだめだと答えるばかりだった。私の個人的な印象ではきっと彼は霊的なレベルで内密に最も重要性のあるOSHOの後継者にあたるような人物だったのだろうと思う、ちょうど仏陀にとってのマハー・カーシャパ(大迦葉)のように。私はずっと以前にOSHOが「私は仏陀からマハー・カーシャパ、ボーディダルマへと続く法灯の最後の継承者である・・・」といったようなことを語っている講話本を見かけたことがあるが、もしそのような法灯があったならOSHOに継承された法灯はスワミ・アループ・クリシュナにも当然受け継がれているのだろう。アループ・クリシュナさんはアシュラム内で時には指導者用のローブを着て何かの瞑想指導を行っていたこともあったけれども、基本的に極力自分が目立たないようにと務めているような印象が強く、私に対してのアドバイスも「瞑想を続けていきなさい」というシンプルな言葉だけで、彼自身もまた大理石のブッダホールに集う多くの瞑想者の中に混じり一介の瞑想者のような振る舞いをして過ごしていたのだ。その後残念なことに二〇〇六年にプネーを訪れた時にはアシュラム内にあった彼の部屋の入っていた建物は取り壊され彼の部屋もなくなってしまったのだっだ。そして大理石の瞑想ホールにあったOSHOが講話を行っていたステージも床だけ残しすべて取り壊されていまっていて、その時期の滞在中は結局彼の姿を見かけることもできなかったのだ。
次回プネーを訪れる機会があればアループ・クリシュナさんと再会できればと思っているが、まだ生きていたとしてもかなりの高齢になっていると思う。彼と最後に会ったのは一九九八年十二月のことだったので、もし今年の年末にプネーを訪れ彼に会えるならちょうど二十年ぶりの再会ということになる。また私が初めてアループ・クリシュナさんに会ったのは一九八九年十月九日のことであったので、来年秋にインドを訪れ彼と再会することができるならちょうど三十年目の節目にあたり、それは私が初めてインドの地を訪れてからちょうど三十年の節目にもあたっている。彼はOSHOアシュラムのすぐ裏手に位置するOSHOがまだ生きていた時代からあった高級ホテルのブルーダイヤモンドのロビーで見かけることもあったが、次回のインド旅行でプネーを訪れるような流れになった際にはこのホテルも訪ねてみたいと思っている。若い時期のOSHOは「光明を得た人が沈黙していることは無慈悲である」といったコメントも残しているが、晩年の講話の中には「光明を得たらそのまま黙って居なさい、そうすればあなたはどうしてブルーダイヤモンドに出入りしているのですか?といった文句を言われることのなく世間の厄介事に巻き込まれずに済む・・・」といったようなことも語っていて、そのメッセージは暗にスワミ・アループ・クリシュナに向けて語られたものだろうと思う。そして晩年のOSHOが若い時期とは反対のことを語ったのはOSHOがスワミ・ゴヴィンド・シッダールタの光明を宣言した後、彼がOSHOの元を離れていくような流れになってしまったこととも何らかの関係があるのかもしれない。
仏陀のアストラル体とOSHOの融合をビジョンで見たスワミ・ゴヴィンド・シッダールタは一九七〇年代初めにヒマラヤのシッキムでラマ・カルマパ僧に謁見した際、カルマパから将来仏陀の魂がOSHOに降臨するであろうが実際に起こるまではそのことは語らないようにと告げられていたそうで、また「仏陀の魂はクリシュナムルティと融合するべきであるが、彼がそれを拒絶している・・・」といったことも語っていたそうだ。 スワミ・ゴヴィンド・シッダールタは仏陀のアストラル体とOSHOの融合をビジョンで見たその同じ時期に光明を得ているそうで、たぶんスワミ・アループ・クリシュナにエンライトメントが起こった時期も同じ頃だったのではないかと思う。
仏陀は満月の夜生まれ、同じ満月の夜光明を得て、また同じ満月の夜肉体を去ったという話を聞いているけれども、ちょうどグルへの感謝を捧げる日として知られるグルプルニマにもあたっている満月の今夜あたりは、静かに瞑想に入るには最適な時間帯なのかもしれない。

公開日 2018年7月27日 金曜日

画家の瞑想録 コラム・エッセイ