インド瞑想の旅,聖地ティルヴァンナーマライへの最初の訪問

2017年2月8日

二十五年前の今日一九九二年二月八日は私が三度目のインド旅行にでかけた日。それ以前のインド滞在では南インドを訪れたことがなかったのでこの旅は私にとっての初めての南インドへの旅でもあった。出かけるきっかけはその当時親しくしていた私の恋人の一人とともに四半世紀前からもすでに人気店として行列ができていた千葉のインド料理レストランを訪れた際、座ったテーブルのすぐ横の壁に英語版のインド全土の地図が貼られていて、地図の中にアルナーチャラ山の聖地ティルヴァンナーマライの文字を見つけ「いつか行ってみたいね」と二人で話していたら、ちょうどこのレストランのオーナーがこれからインドに出かけるところで、南インドのティルヴァンナーマライにも立ち寄る予定になっているという話だった。そして当時の彼はアルナーチャラ山の麓にあるシュリ・ラマナ・マハルシのアシュラムを訪れることに関心があったようで、また他に彼は私がそれ以前に長期で滞在した経験のあるプネーにある現在はOSHOメディテーション・リゾートと呼ばれているOSHOアシュラムにも興味をもっていたので、プネーを訪れる際の案内役を私がして代わりにアルナーチャラ山の聖地ティルヴァンナーマライには彼の案内で随行させてもらえることになったのだ。当時ティルヴァンナーマライは旅行ガイドブックにはもちろん紹介されていないし(注:1)、アルナーチャラといえばザラザラで半分ぼやけた粗いモノクロ写真の入ったラマナ・マハルシ関連の本が僅かに出版されているだけで、それはかつてゴダイゴの歌っていたガンダーラのように遠い彼方の憧れの地のようなイメージがあった。そして当時の私は東京芸大油画科の大学院生でその時期は特に親しくしていた恋人の女性が二人いて、結局インド旅行はその二人の両方を連れ出かけることになった。 
飛行機は二月八日の日中にエア・インディアのAI309便で成田空港を飛び立ち、途中デリーを経由し夜には現在はムンバイと呼ばれているボンベイ空港に到着。その後深夜に別の飛行機を乗り継いで(注:2)翌朝の早朝には現在はチェンナイと呼ばれているマドラス空港に到着した。そして今でもはっきりと記憶に残っているのはマドラス空港に到着した時点ですでにインドの崇高なエネルギーといった言葉で表現できるような光のエネルギーが私の全身に浸透してくるのがはっきりと感じられたことだった。最初の二泊ほどはマドラス市内に滞在し街のヒンドゥー寺院、カーパーレーシュワラ寺院やインドの著名な神秘家クリシュナムルティに所縁のある神智学協会などを訪れた。クリシュナムルティといえばいつもすぐに仏陀のマイトレーヤ、弥勒降臨の話を思い出してしまうのだが、神智学協会は元々仏陀が再び地上に戻ってくるというチベットの古文書に書かれた予言をもとに仏陀の魂が降臨するための媒体を用意するために創始されたのだという話を聞いたことがある。そして古文書によれば生前の仏陀は二五〇〇年後に自分が再びマイトレーヤ(弥勒)として地上に戻ってくるという遺言を残していかれたそうで、そのため彼は光明を得ていながら肉体を去った後も自らのアストラル体、第三身体と呼ばれるエネルギーの体(注:3)をこの二十五世紀の間ずっと保持してきたのだそうだ。そして再び地上に戻るときには子宮を通じての通常の誕生ではなく他の誰かの肉体に降臨する(ウォークイン)という形式をとるということも述べられていたらしい。そしてこれらの仏陀の言葉に目をとめた神智学協会のメンバーたちが弥勒降臨を成就させるための媒体として見出したのがクリシュナムルティだったのだという。実際古いチベット密教の聖典の中には弥勒の降臨する人物の名はクリシュナムルティであるという記録さえ残っているらしい。またインドの著名な神秘家として知られるOSHOによってもそれが起こる最もふさわしい人物はクリシュナムルティであったとコメントされている。しかしながらクリシュナムルティは仏陀が彼の肉体に入ろうとした最後の瞬間になってそれを拒絶してしまったらしい。そしてOSHOによればこのとき仏陀が地上に生きていた時代にもすでに彼と敵対していたというデーヴァダッタの魂が邪魔をしてそれまでの努力のすべてを台無しにしてしまったのだという。その後の状況についてはOSHOの光明を得た弟子のひとりとして知られるゴヴィンド・シッダールタ師が若き日の一九七〇年代初めにチベットの著名な転生活仏カルマパ十六世を謁見した際に、クリシュナムルティを通じて起こらなかったことが将来OSHOを通じて起こるであろうことが内密に告げられていたそうだが、最終的にOSHOの肉体に仏陀の魂が降臨することになったことについてはカルマパ十六世の他に日本の伊勢神宮内宮の別宮、倭姫宮に仕えていた女性見者の石田かつえ女史によっても語られていて、彼女は一九八八年に知人から見せられたOSHOの写真を見て彼の肉体に仏陀の魂が降臨していることを確認したことを語っているそうだ。そして彼女自身はそれよりずっと以前に神秘体験を通じて仏陀から直接メッセージを受け取っていたそうで彼女はその神秘体験を次のようにコメントしている。 
『二十年前仏陀が私のハートを訪れて、彼は二十一世紀を準備するために肉体に戻って来ると告げました。彼は誰かの身体に降臨しようとしていたのです。私は沈黙を感じ始めました。そして大気のなかにある微妙な力がどんどん静かになっていったのです。私は死をとても近くに感じました。私はそのことが誰かに起こったと知りました。その後間もなく、空から黄金色のエネルギーの雨が降り注ぎ、ひとつの水晶球が私の身体のなかのちょうどこのあたり(彼女は脾臓のまわりを示した)に入って来るという体験をしたのです。私が仏陀にそのシンボルの意味をたずねたら、彼はひとりの男性のビジョンを私に見せました。それは横顔で白く長い髭を持ち大勢の座っている人びとにナマステ(両手を合わせる、東洋の挨拶)で挨拶をしていました。』 (ラジニーシ・タイムズVo2. 1 Apr. 1989参照)
この他にも戦時中だった幼少時には何百キロも離れている広島に原爆が落とされたのと同じ時間に大きな爆発音を聞き自身の身体が爆発して気を失ってしまうといった神秘体験なども経験しているそうで、彼女は伊勢神宮の最高位の巫女としても知られていたそうだ。私はOSHOが肉体を去った直後の一九九〇年初めのプーナのOSHOアシュラムで何度か彼女を見かけていて、日本への帰国便が偶然にも彼女と同じ航空会社の同日同便だったのでボンベイ空港で直接彼女と話したことがあり、その時の彼女の表情からはOSHOが肉体を去ってしまったことにとても胸を痛めていたこと、またこの世界の現状についても深く憂いている様子を強く感じ取ることができた。 
マドラス滞在中の一泊はエグモア駅に近いホテル・パンディアンに泊まったような記憶がある。南インドは人々が穏やかでそれまでに訪れたことのある北の方とはかなり違った印象だった。また千葉のインド料理レストランのオーナーの案内で入った現地のレストランでは生まれて初めて南インド料理のマサラドーサも食べた。 
その後アルナーチャラに向かった日は途中海岸沿いの遺跡マハバリプラムにも立ち寄った。そのためティルヴァンナーマライへ到着したのは午後か夕方頃だったと思う。初めてのアルナーチャラは三日間の短い滞在だったけれども生まれて初めての経験ということもありとても密度の濃い時間を過ごせたような印象がある。ティルヴァンナーマライではラマナ・マハルシのアシュラムに宿泊、私は千葉のインド料理レストランのオーナーとの相部屋だった。現在ではティルヴァンナーマライには多くのホテルがありホテル予約サイトのアゴダやブッキングドットコムなどを使えば日本に居ながら簡単に宿泊予約ができるようになっているけれども一九九二年当時のこの街にはホテルはまだ一軒もなく(注:4)アルナーチャレーシュワラ寺院の近くにロッジと呼ばれる簡単な宿泊施設があるだけでラマナ・アシュラムへの宿泊に際しても事前に手紙での許可申請が必要で当時の私はそのための連絡先を確認するすべも持っていなかったのだ。ラマナ・マハルシは少年時代にティルヴァンナーマライへ移り住んで以来生涯のほとんどすべての時間をアルナーチャラで生きたそうで彼自身はアルナーチャラ山の磁力に導かれてこの地に引き寄せられてきたのだと語っているそうだ。そして私がこのアシュラムを初めて訪れた際に特に印象に残ったのはまずアシュラム入り口に立っていた大きな太い木。この木はとめどなく溢れ出すエネルギーが具現化してしまったかのように幹がボコボコと太く膨れ上がっているように見えた。それはこの地がとても強力なエネルギーに満たされたヴォルテックスと呼ばれるようなパワースポットであることを初めて感じた瞬間でもあった。そしてアシュラム内のラマナ・マハリシの祀られているサマディ・ホールと呼ばれる部屋、ここも圧倒的なエネルギーで満たされていてここではそれがラマナ・マハルシの亡骸の納められたリンガの方から放射されているエネルギーのように感じられた。 
アルナーチャラ滞在中には街の大寺院、アルナーチャレーシュワラ寺院も訪れた。寺院を訪れたのは二日目の夕暮れ時だったと思う。そして寺院のメイン・ゲートを入る直前には参道沿いに並んだお店で買い物をする現地のインド人女性のスナップ写真を数枚撮影した。そのうちの一枚は特に私のお気に入りの写真で帰国後に油彩画にも描いている。初めてアルナーチャレーシュワラ寺院を訪れた際私は寺院の塔や寺院内の石の柱に彫られた無数の彫刻にすぐに圧倒されてしまった。その中でも古代タミル、シヴァ派の六三聖人の像が並んで飾られているシヴァ寺院の中にある彫刻は特にユニークなものが多く私はこの時からこのシヴァ寺院に魅せられてしまったのだ。そして後年アルナーチャラを訪れた際にはいつもこの寺院を訪れ、静かに瞑想に入ったりドローイングのスケッチを描いたりしている。この日訪れたシヴァ寺院の中ではごく普通のサラリーマン風のインド人男性が目を閉じて瞑想に入りマントラのような呪文を呟くように唱えながらほとんど恍惚状態に入ってしまっている様子を見かけ、霊性の国としてのインドの崇高さのようなものを垣間見せられるような瞬間もあった。 
寺院を訪れた後は近くのニュー・アルナ・レストランに入った。ここでもマドラス滞在中と同様マサラドーサを注文したのだが、このとき注文したドーサは特に美味しく感じられた。そしていっしょだった千葉のインド料理レストランのオーナーがドーサの作り方を私たちに解説してくれたりもした。その後食後にはミルク・コーヒーを飲んだ。ラマナ・マハルシのアシュラムでも朝食の際には温かいミルクとミルク・コーヒーがついてきた。インドではミルク・ティーのチャイが飲み物の定番メニューなのだが、南インドで飲む甘いミルク・コーヒーもまた独特の味わいがある。続く... ( このページはまだ書きかけです。)

(注:1)2014年以降は『地球の歩き方 D36 南インド 』にアルナーチャラ山の聖地ティルヴァンナーマライ(ティルヴァンナマライ)の現地情報が掲載されているそうです。

(注:2)現在のエア・インディアではムンバイを経由せずにデリーからの乗り継ぎ一本でチェンナイを訪れることが可能です。

(注:3) 第三身体(アストラル体)についてOSHOは全部で三つある身体のうちの最後の三番目の層として語った時と全部で七つある身体のうちの三番目の層として語った時があったそうです。

(注:4)ティルヴァンナーマライでの最初のホテルは1993年にできたアルナーチャレーシュワラ寺院のすぐ近くに位置しているティルシュル・ホテル(Trishul Hotel)、二番目がその翌年にバスステーションの近くにできたラーマクリシュナ・ホテル(Hotel Ramakrishna)、周辺にホテルのなかったラマナ・アシュラムの近くには最近になってラマナ・タワー(Ramana Towers)やアシュラム入り口の斜め前に位置している半地下にスーパーマーケットが入ったアーカッシュ・イン・ティルヴァンナーマライ(Aakash inn Tiruvannamalai)などができています。また主に南インドでは普通のレストランをホテルと呼ぶ習慣もあるそうで、ティルヴァンナーマライでは珍しく古くからノンベジタリアン・メニューの注文ができたレストラン、ホテル・ナラは現在ではホテル・ナラ・レジデンシー(Hotel Nala Residency)に名称変更され宿泊施設も完備したホテルになっています。他に昔はラマナ・アシュラムの滞在者でなければ難しかったチェンナイ空港などへのタクシー送迎サービスもスパルサ・リゾート・ティルヴァンナーマライ (Sparsa Resort Thiruvanamalai)などでできるようになっているようです。同じタクシー・サービスはラマナ・アシュラム正門を出て真正面にあるスーパーマーケット(スーパーのレジが受付)や隣のネットカフェの受付を通じても可能です。インドでの遠距離のタクシー料金は片道でも往復分の距離料金が請求金額になるようなのでティルヴァンナーマライのホテルや旅行会社にチェンナイ空港への出迎えを頼んでも空港への出迎え手数料が加算される場合があるだけで、空港のプリペイドタクシーを使ってティルヴァンナーマライを訪れる場合と比較して料金に大きな違いはありません。

公開日 2017年2月8日 水曜日

画家の瞑想録 コラム・エッセイ