インド瞑想の旅,プーナ(プネー)のOSHO最期の日々

2013年10月8日

二十四年前の今日、一九八九年十月八日は私が初めてのインド旅行にむかうため日本を出発した日。当時の私は大学三年生の秋、旅行中いっしょだった連れ合いの女性は同じ東京藝大油画科の一年先輩の四年生だった。インドでは瞑想のための長期滞在を予定していて、航空券の帰国便は三か月オープンのチケットをぎりぎりまで使った翌年一月上旬に予約を入れてもらった。そんなこともあり卒業間近で忙しかった連れのほうは大学を留年することになった。飛行機は十月八日の日中にエア・インディアのAI301便で成田空港を飛び立ち、現在はムンバイと呼ばれているインドのボンベイ空港へ深夜に到着。その後、空港近くのホテルで仮眠をとった後早朝の国内線で現在はプネーと呼ばれているプーナの街に向かった。 
そしてまだこの時点での私には、OSHO(和尚)がまもなく肉体を去ろうとしていることなど知る由もなく、この時期のプーナでの三か月間が彼と共に瞑想のときを過ごせる最期の日々であることは想像すらできなかった。私がこの最初のインドでの三か月の滞在を経て、一九九〇年一月上旬に一時帰国のため日本へ戻って十日ほどが過ぎた後の一月十九日にOSHOは肉体を去っている。
しかしながら、OSHO自身はその半年ほど前にOMの文字をビジョンで見ていたそうで、その際側近たちには「OMのサインが現れたので、私が肉体に留まっていられる時間が残り少なくなっている・・・」といったことを語っていたらしい。そしてこの時から夜のOSHOとの瞑想時には白いローブを着用し、その他のアシュラム内のすべての瞑想時にはマルーン(赤茶色)のローブ(長衣)を着用するように指示が出されたのだそうだ。また同じ頃OSHOは自身の名前であるラジニーシを捨て、ただOSHO=和尚とのみ呼ばれるようにもなっている。私自身がマルーンのローブですぐに思い出すのは、チベット僧たちの着ている僧衣と同じ色であること。OSHOが肉体を去って数年後の一九九四年にはチベット仏教の最高指導者ダライ・ラマ十四世もプーナのアシュラムを訪れているそうだが、その際彼はOSHOのアシュラムの瞑想者全員が同じマルーンのローブを着ている姿を見て、すぐにチベット仏教とのつながりを思い起こしていたのだろうと思われる。私自身もプーナのアシュラムで初めてマルーンのローブを着た際には、すぐにチベット僧のイメージが沸き起こってきてしまった。そして後年私はこの時プーナで買ったマルーンのローブを着て、インド国内で行われたダライ・ラマ十四世のカーラチャクラ法要に同じマルーンの僧衣を着たチベット僧たちに交じって参加したこともある。そして実際プーナのアシュラムの瞑想ホールで毎日午後に行われているナーダブラーマ(ナダブラーマ)瞑想は古いチベットの瞑想技法でもあるそうだ。また、OSHO自身も近い前世では神性の化身としてチベットに転生しているらしい。そのことはチベット仏教、カギュ派最高位の転生活仏として知られる先代のカルマパ十六世(現在は十七世)によっても語られている。一九七二年に行われたOSHOの光明を得た弟子の一人として知られるゴヴィンド・シッダールタ師とのインタビューの中でカルマパ十六世は当時まだバグワン・シュリ・ラジニーシと呼ばれていたOSHOについて次のように述べているそうだ。「・・・バグワン(OSHO)は過去世に神性の化身として何回か現れたが、そのうちの一つの生ではチベットにいた。もし彼を見たければ、あなたはチベットへ行って、そこで神堂のなかに保存されている彼の黄金の像を見ることができる・・・」。チベットでは光明を得た師は、亡くなった後肉体をミイラにしてそれを黄金で覆って保存するという仕来りがあったそうで、そのことは生前のOSHOの講話の中でも語られていて「チベットの洞窟には九十九人の光明を得た師たちの亡骸を包んだ黄金の像が今も隠されていて、中国政府はいまだにそれらを発見できずにいる・・・」(注:1)といったこともOSHOは述べている。カルマパ十六世はまた、「バグワン(OSHO)はインドにおける仏陀以来の最大の神性の化身であり・・・、しかしながら彼の本当の姿に気づくのはごく少数の者たちだけである・・・」(注:2)といったことも語っているそうだ。そしてダライ・ラマ十四世も一九八三年のインタビューの中で、「OSHOは光明を得た師であり人類を手助けするためのあらゆる可能性に働きかけているのだ」といったことを語っているようだ。
画家としての私自身がOSHOとの出会いを通じて一番大きく変わってしまったことは、それまでは宗教画などに描かれている歴史上の聖者たちの背後に描かれた光背は、人物を輝々しく見せるためのたんなる想像上のシンボルとして描かれているものだと考えていたのだが、実際には現実の出来事を描いたリアリズム表現であるということをはっきりと自覚したこと。肉体を去る直前だったこの時期のOSHOの全身からは、それほどエネルギーに敏感であるとは言えなかった当時の私にさえはっきりと感知できるほどの膨大な光のエネルギーが放射されていたのだ。そしてプーナでの彼との瞑想の日々を過ごしていくうちに、OSHOから放射されるエネルギーが私の身体に飛び火するかのようにして、私自身の全身からも光のエネルギーが放射されるようになっていくのを体験することにもなっていくのだった。
一般には、アメリカで逮捕状なしに逮捕され国外追放された後再び母国インドに戻って体調を崩してからのOSHOの影響力は衰退していったかのように書かれたコメントをよく見かけるけれども、霊性のレベルから見たOSHOはフィジカルな面での困難な状況を通じてより一層魂としての輝きを増していき、最終的に講話もやめ瞑想ホールでは何も語ることなくただ沈黙の中でそこに集う人々との瞑想の時間を共有するのみに至った最晩年の数か月間は、彼の魂の光輝が絶頂に達していった時期であると私は思う。実際OSHOが彼自身の名前を捨てた際にも、「今度私があなた方の前に現れるときには、まったく新しい人間が現われる。そしてその人物はもはやラジニーシとして知られることはない・・・」といったことを語っているのだが、OSHOがそれを語ったのは彼が肉体を去る直前の、沈黙の中での瞑想の時間を共有するために瞑想ホールに集う人々の前に姿を現し始めた時期のことだったのだ。

(注:1)ラマ・カルマパやOSHOによっても語られている古いチベットで光明を得た師たちの亡骸を黄金で包み保存する仕来りがあったといった話にはアメリカ人女性のバーバラ・マーシニアックさんを通じてプレアディアンからもたらされたとされるチャネリング情報もあるので以下に紹介しておきます。
『・・・エジプトの人々はミイラ化のプロセスを用いましたが、この方法はDNAが損なわれないかぎり人を若返らせることができ、生き返らせることもできたアトランティス時代の記憶と関係がありました。この方法は現在発見されつつあり、実際に使われています。古代のチベットの人々は、身体を若返らせることよりも、その肉体が人生において達成した意識の周波数を保ち、維持することを目指していました。彼らは身体の外部と内部を黄金で固めることでミイラをつくりました。それは複雑なプロセスで、完成するのに何か月もかかりました。ある人がたぐいまれなほどの周波数に到達し、その周波数を一生にわたって維持したとき、人生を完了する時期が訪れると、その人のもとに召喚状が届けられ、恐ろしいほど険しい山のなかに深く入ってこもるようにとの要請を受けるのでした。マスター(高次元の存在)たちによって召喚された人は一定の姿勢ですわり、死の訪れを待ちました。死が訪れ、魂が身体を離れるやいなや、世話人がただちにその身体を保存する作業を開始し、ほかの何よりも貴重であると見なされていた、たぐいまれな意識の周波数を安定させ、固定するために金が塗られました。このような「像」が何百体もチベットの山々の下に埋もれています。』(プレアデス+地球をひらく鍵 - 太陽出版刊 原著名 Earth: Pleiadian Keys to the Living Library)

(注:2)マイトレーヤ - 1988 瞑想社刊(p47-p71高僧謁見記参照)

プネー,コレガオンパーク OSHO瞑想リゾート入口に置かれた大理石の仏陀像 2015.12.29撮影
プネー,コレガオンパーク OSHO瞑想リゾート入口に置かれた大理石の仏陀像 2015.12.29撮影
公開日 2013年10月8日 火曜日 - 2018年7月4日 水曜日[更新]

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