霊鷲太母(菊池霊鷲)と合気道の開祖,植芝盛平氏

2017年11月22日

昨日不意に太母(たも)さんのことが思い出されてしまって、彼女が肉体を去った日が二〇〇一年十一月後半だったことまでは記憶にあったので日付を確認し直しちょうど昨日二十一日であったことが確認できた。生前の彼女には私も含め周囲のほとんどの人はみな太母さんと呼んでいたけれども、今思い出すと彼女はあまりにも尊い人であったように思えてしまうので、さん付けで呼ぶことには強い違和感があり、かといって太母様とか菊池霊鷲師といった言葉で呼ぶことも実際に彼女と接したことのある私としてはあまりしっくりと馴染まない印象もあるので、私の文筆内で彼女のことを書く際には呼び捨て的にはなってしまうけれども一番自然な印象に近いと思われる霊鷲太母(りょうじゅたも)という呼び名で書いていきたいと思う。合気道の開祖植芝盛平氏は霊鷲太母と親交があったそうで、あるとき彼女が植芝氏の道場を訪れた際、彼は突然神懸って服を脱ぎ捨て、彼女の前で自分を卑下して猿の格好で膝まずき「姫は天照大神の化身にござります、このじいがサルタ彦として姫をお守りいたす」と語ったそうで、植芝氏が彼女を天照大神、アマテラスの化身であると宣言した話は今思うとあまりにも的確すぎると思えてしまう表現で、日本には霊的に秀でた人物をきちんと見抜く眼を持った人もちゃんといたのだなと深く感心させられてしまうけれども、インドのOSHOは霊鷲太母のほうからわざわざプネーの彼のアシュラムに立ち寄ってくれたにも関わらず、ステージ上から彼女の頭上に花をまいてみたり、彼女が光明を得ていることを祝福するメッセージは送っていながらも「無に至るあと一歩がある」といった上から目線的なコメントまで差し挟んだりもしていて、こちらも今考えれば見当違いもはなはだしいというのが正直な思いではあるけれども、一九八九年当時のプネーに滞在していた頃の私にはOSHOがステージ上から彼女の頭上に花をまいている様子を目の前で目撃していながらもそのことに違和感が生じることさえなかったのだ。
生前の霊鷲太母からは天照大神に関連した出来事を彼女自身から直接聞いたこともあったけれども、それは彼女が四国の山に登った際に山頂で山伏のような方が話しかけてきて「自分はこの山の山頂に天照大神が現れる夢を三度続けて見てしまったので、そのことが気になってこの山の頂上に登ってずっと待っていたのですが、夢で見た天照大神はたぶんあなたのことのようだ」と言って敬意を示され礼拝されてしまったことがあったことを話してくれたこともあった。
ここから二年ぶりの追記になります、現在二〇一九年十一月二十一日の夜、今日は霊鷲太母の命日でもある。彼女が居なくなったあとで、彼女の臨在をとてもリアルに感じたのは霊鷲太母がこの世を去って四年後の二〇〇五年秋に彼女の暮らしていた鎌倉の新築される以前の古い霊鷲寺を訪れた際のことで、お寺の本堂の彼女の遺影が飾られた仏壇に向かって瞑想の祈りをささげていると、強烈な光を放射している白い光の玉のように感じられる意識体で仏壇の中央に出現した霊鷲太母を感じることができた。肉体や肉体に近い輪郭のエネルギー体なども感じられなかったがほとんど本堂の中に彼女が存在している状態になっていたので、この時は私自身の意識が変性意識状態になり向こう側にいる彼女の意識とつながったというよりも、こちらの物理次元に出現してくれた彼女の意識と交流をしたという感触だった。しかしながらこのときいっしょに居たお寺の方は霊鷲太母の意識をとくに感じていなかったようなので、多少は特殊な意識状態で彼女の意識を感じ取っていたのかもしれない。言葉として理解できる彼女から伝わっていたメッセージは「私のお寺によく来てくれたね」といったものだったが、それ以上に印象に残っているのは白い光の玉から放射される光のエネルギーでハートがヒーリングされ、涙がとめどなく流れ落ちてしまったことだった。そしてこのとき私の受け取ったエネルギーは無条件の愛といった言葉でも解釈できるようなエネルギーで、同様のエネルギーは一九九〇年代初めの時期のダリル・アンカさんのチャネリングを通じたバシャールからも受け取ったことがあり、また生前のプネーのOSHOとの瞑想を通じたダルシャンの際にも受け取っている。
現在肉体をもっていない聖者や覚者と呼ばれるような存在は、物理的な位置に縛られていないのでこちらの意識がむこうにつながることができれば、生前彼らが暮らしていた場所などわざわざ彼らのゆかりの地を訪れる必要もないともいえるが、私自身の経験では聖者のゆかりの地を訪れることで現在は肉体をもっていない彼らの意識とよりつながり易くなるということはあると思う。インドのOSHOが肉体を去ってから十年ほどは頻繁にプネーのOSHOアシュラムを訪れているが、その後数年間時間が空き、久しぶりに二〇〇六年秋にプネーを訪れた際にも、プネーの空港からアシュラムまでの移動の際、走っているオートリキシャの少し上空からナマステで両手を合わせたOSHOの姿のビジョンとともに彼の意識を感じ取ったこともある。そしてこの時は、前年の霊鷲寺での出来事のような覚者の意識がこちらの物理次元に出現してきたというよりも、向こうにいるOSHOが間接的に意識投射をしてこちらの次元の私と交流してくれたといった印象だった。またほかにOSHOの意識との接触で、彼の意識体がほとんどこちら側に出現してしまったのではと強烈にOSHOの臨在が感じられた経験もあった。一九九〇年一月にOSHOが肉体を去った直後に私が再びプネーを訪れてからの数日間は、生前のOSHOとの毎晩の瞑想があった午後七時頃になると瞑想ホールの空の椅子が置かれたステージ上にOSHOの霊体として感じ取れるような人間の輪郭に近い形のエネルギー体が出現していたのだ。そして降霊術とも呼べてしまうようなこの不思議な出来事はその後ある日を境になくなってしまったが、霊的な情報に詳しいアシュラムの知人のそのことを話すと、肉体の死後一定の日数が過ぎてOSHOはもう彼自身のアストラル体を維持できなくなってしまったからだろう」とその知人は話していた。他に二〇〇二年の秋頃のことだったと思うが、その少し前の時期から南インドの聖地アルナーチャラの柳田宅にプネーのOSHOアシュラムでも見かけたことのあるOSHOの二十一人の後継者グループの一人でもあったと伝え聞く日本人女性が暮らし始めた頃のことで、彼女はラマナアシュラムのスタッフの仕事をする代わりにアシュラムで食事をもらえることになり柳田宅では留守番役として部屋ももらえることになったらしい。その彼女に会いに柳田宅を訪れた際のこと、お茶をもらって彼女とOSHOの話をしていると彼女の後ろにとても存在感のある守護霊のような意識を感じ取り、次の瞬間それがOSHOであることに気付いたのだ。たぶん彼女とOSHOはカルマ的に強いつながりをもっていて肉体を去ったあともOSHOは彼女のことを個人的に見守っていたのだろうとその時感じた。そして彼女をアルナーチャラ山の聖地ティルヴァンナーマライに導き、現地での衣食住を確保するためのサポートでもOSHOが背後から感化してくれていたのだろうと感じてしまったのだ。
二〇一九年の十一月二十九日は、私が霊鷲太母に出会ってちょうど三十年の節目にもあたっている。三十年前の一九八九年、私は大学在籍中にもかかわらず一〇月初旬から長期でインドを訪れ、プネーのOSHOアシュラムで瞑想の日々を送っていた。十一月二十九日の彼女のとの出会いは、その時期OSHOアシュラムにゲストとして三日ほど滞在していた霊鷲太母がOSHOアシュラムの大理石の瞑想ホールを案内人に連れられ入ってきたときのことだった。私はこのときちょうど瞑想ホールの中のゲストが出入りする際に使う出入り口のすぐ前で瞑想していたので、すぐ目の前に立つ彼女の姿を見かけたのが最初の出会いだった。その後、日本に帰国後は幾度となく鎌倉の彼女のお寺を訪れることになった。続く...このページはまだ未完了につき加筆修正されます

菊池霊鷲(霊鷲太母) 伊豆の国市、二葉旅館にて 撮影1994.11.19
菊池霊鷲(霊鷲太母) 伊豆の国市、二葉旅館にて 撮影1994.11.19
公開日 2017年11月22日 水曜日 - 2020年05月01日 金曜日 更新

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