柳田侃さんとの出会い,ギリ・プラダクシナと満月のアルナーチャラ

2016年8月16日

今日八月十六日は国際経済学者でまたシュリ・ラマナ・マハルシの著作の翻訳者としても知られていた柳田侃さんの命日。柳田さんは東大法学部卒、経済学博士で甲南大の教授でもあったそうだが、長男を若くして失くし落ち込んでいた時期にインド経済が専門の知人のすすめでその知人と共にインドを訪れて以来、インドに強い関心を持つようになったのだそうで、名誉教授になってからの晩年の多くの時間を南インドの聖地ティルヴァンナーマライのアルナーチャラ山の麓で過ごしていたようだ。 
私が最初に柳田侃さんに会ったのは一九九五年一月の私の二度目のティルヴァンナーマライ訪問の際、その時期は事前にアルナーチャラ山の麓にあるラマナ・マハルシのアシュラムへの滞在許可を得ていたのだが、アシュラムのゲストルームが混んでいたため柳田宅に滞在させてもらえることになった。柳田さん自身がアルナーチャラ山の麓のラマナアシュラムのすぐ近くに建てた家に暮らし始めたのは一九九四年十月からのことだったようで、私が彼に初めて会ったのは彼がアルナーチャラの地で暮らし始めてから三か月ほどが過ぎた時期にあたっている。 
柳田宅での滞在中には彼が日課のようにしていたギリ・プラダクシナに彼と共に参加することになった。ギリ・プラダクシナは山の姿をとって地上に顕現したシヴァ神として崇拝されているアルナーチャラ山の周囲十四キロ程の巡礼路を時計回りに歩いて一周するヒンドゥー教の風習、または儀式のようなもので現地の人達には普通ギリバラムと呼ばれている。私は最近同じ南インドにあるムルガン神の聖地パラニ山を訪れているのだが、この山の山頂にある神聖なムルガン寺院の片隅には古代の聖者ボーガナタル(注:1)がソルバ・サマーディに入ったとされる場所があり、その場所を最初に訪れた際の私の印象ではその一画は磁気異常といったような言葉が浮かんできてしまうような尋常でないエネルギーに満たされているとても不思議なエネルギースポットであった。そしてパラニ山はシヴァ・ギリと呼ばれアルナーチャラ山と同様シヴァ神の山として崇拝されているそうで、またその周囲を取り囲む道もギリバラム・ロードと呼ばれ多くの巡礼者がこの巡礼路を歩いていた。そして山頂に寺院の置かれたパラニ山では巡礼者が山頂を訪れる際、必ず先にギリバラムを行って山の周囲を一周してから山頂に続く石段を登っていくしきたりになっているそうで、私は同様の感覚をかなり以前からアルナーチャラ山でも感じ取っていて、瞑想を目的として山頂を訪れる際には必ず先にギリ・プラダクシナを行い、御神体の周囲を円でくくった後に山頂の登頂を目指すようにしていたのだった。(アルナーチャラ山では歩く距離が大きいのでギリバラムと山頂登頂で日を分けることもある) 
アルナーチャラ山のギリ・プラダクシナでは毎月満月の時期のギリバラム・デイ(月が完全に満ちる前の十四夜目の頃)になるとインドの他の地域からも多くの巡礼者がこの地を訪れるのでこの日の夕方から翌朝にかけての街全体の巡礼路が歩行者天国になる時間帯には街のバスステーションも一時的に郊外に移され、巡礼路は深夜でも人で埋め尽くされてしまうのだ。そして年に一度のカルティガイ・ディーパム祭の最終日ディーパム・デイには、日没時に山頂で焚かれる聖なるかがり火を参拝するために登山道が人で埋まってしまうほどの膨大な数の巡礼者がアルナーチャラの山頂を訪れている。 
一九九五年一月のこの時は早朝の午前三時過ぎのまだ暗い時間に柳田さんと共にギリ・プラダクシナにでかけた。歩いていく途中「道の右側は目に見えない聖者やシッダ達がギリ・プラダクシナを行っているので、左側を歩くように」とのアドバイスも受けた。そして道沿いに点在するラマナ・マハルシ所縁のスポットやエイト・リンガムと呼ばれる巡礼路沿いの八つの方角に位置するシヴァリンガムを祀った寺院などで立ち止まりながら彼の案内を聞きその後、街の大寺院とは山を挟んで反対側に位置するアディ・アンナマライ寺院に立ち寄り、ここでは寺院の門前から参拝をした。柳田さんは「大きな寺院ではないけれどもラマナ・マハルシが見たヴィジョンによればこの寺院のどこかに地下世界に通じる秘密の入口が隠されているらしい」といったことを話してくれた。 
歩き始めてから三時間以上が過ぎた頃には街の大寺院、アルナーチャレーシュワラ寺院に到着した。そして寺院内の千本柱廊のホール内にある若き日のラマナ・マハルシがサマーディに入った場所として知られる部屋を参拝した後、寺院のメイン・テンプルであるアルナーチャレーシュワラ神の祀られたシヴァ寺院の至聖所を彼と共に参拝し、寺院の神職から額に聖灰を塗ってもらった。その後、この日は慣れない私もいっしょだったこともあってアシュラムの朝食に間に合わなくなりそうだったので寺院の門を出たところからの最後の道はオートリクシャを使って柳田宅に戻った。 
そして彼と共にギリ・プラダクシナに参加した後、この時期の私は満月の晩にアルナーチャラの山頂を訪れる予定でこの地を訪れていてその際夜間の時間帯に柳田宅を外出することになるため、事前にそのことを伝えたのだが、それを聞いた彼は急に不機嫌な様子になり「アシュラムの滞在者は日中でさえスカンダ・アシュラムまでしか登らないのに、その上夜に頂上に登るなんて馬鹿げている」といった厳しい口調で叱りつけられてしまったのだ。ラマナ・マハルシの信奉者達にとってアルナーチャラ山中で最も重要性のある場所は山の中腹にあるラマナ・マハルシが長く暮らしていたスカンダ・アシュラムであって、ここより上の山中に足を踏み入れることをタブー視する傾向も暗黙の共通認識のようなものとして出来上がってしまっているので、ラマナ・マハルシの熱烈な信奉者でもあった彼のこの時の反応はとても自然なものであったと思う。それでも結局私はアルナーチャラの山頂を訪れることになった。 
一月十六日の満月の夜はアシュラムでの夕食をキャンセルして、日没後に街のアルナーチャレーシュワラ寺院に近いレストランで夕食を済ませた。その後アルナーチャレーシュワラ寺院の裏手にある登山道の入口近くにいた現地のインド人の少年をガイドに雇い、彼の案内で山頂を目指すことになった。普通山頂までは休憩を入れながらゆっくり登って行っても一時間半ほどの時間で充分なのだが、この時は生まれて初めての経験でガイドも少年であったこともあり二時間はかかったと思う。そしてこの夜は満月の晩ということもあって山頂にはすでに数人のインド人が居て、空を見上げて満月を眺めている人や山頂の一番平らな岩場に寝転んでいる人もいた。そして登山道の終点近くにはこの少し前の時期から山頂で山籠もりをして暮らし始めていると聞いていたスワミの庵があり、またそこから少し離れた場所には白い布を虫除けの蚊帳代わりに使うかのようにして頭から薄い大きな白い布を被って瞑想に入っているインド人男性がいた。
ガイドの少年には少なくとも深夜の零時が過ぎるまでは山頂に留まるつもりであることを伝えて彼には持っていた小さな袋入りのナッツとミネラルウォーターの小瓶のほうの一本をリュックから出して渡し、私と離れた場所に移動するようにと伝えた。この時期は山頂を訪れた際に水晶を持って瞑想に入ることを事前に日本の知人からのアドバイスを受けていてそれは私がインドを訪れる前に東京で会ったその知人に水晶を見せた際、彼女がその水晶を手に持った瞬間から巫女のお告げのようなチャネリングが始まってしまい「次の満月の晩にこの水晶をもってインドのどこかの山に登り山頂で瞑想をしてくる・・・」といったようなことを言われていたのだ。
アルナーチャラの山頂では、最初山頂北側を少し降りた場所にある大きな岩盤に座った。そしてリュックに入れてきたミネラルウォーターを飲んでから顔や手などの肌の露出した部分には虫除けスプレーを塗った。それから透明な水晶を両手で胸の中心に持って瞑想に入った。この夜私が最初に瞑想に入ったこの岩盤は私が後年イルミネーションやエンライトメントといった言葉で表現できるようなエネルギー・シフトを経験している場所でもあるのだが、この場所はアルナーチャラと所縁の深い古代の聖者イダイ・カダルが瞑想に入った場所としての言い伝えも残されているそうだ。しながらこのエリアはいつも北からの強い風が吹きつけていることが多くこの時も風が強くてここでは一時間程で瞑想を終えることになった。その後は風の吹きこんでこない山頂の南側の岩場の陰の土の地面に座って瞑想に入った。瞑想中に足が痺れてきた頃には時々休憩を入れその度に足を組みなおして再び瞑想に入った。 
その後月が空の一番高いところを通り過ぎていき、深夜の午前一時十五分の時計のアラームで瞑想を終え、木陰で眠り込んでいたガイドの少年を起こして彼と共に山を下り始めた。そして山頂からの登山道を下っていく際、私が山頂に着いたばかりの時に見たのとまったく同じ場所にまったく同じ姿勢で座っている白い布を被って瞑想に入っているインド人男性の姿が目に入り、おそらく彼は私が山頂を訪れていた数時間の間ずっと同じ姿勢で瞑想に入っていたのであろうことが理解され、このときは霊性の国としてのインドの崇高さのようなものを見せつけられてしまった思いがした。 
下山の際にも時々休みながら降りて行った。その後地上が近づいてきてアルナーチャレーシュワラ寺院やその周辺の街明かりが大きく見え始めた頃、ガイドの少年が何かを思い出したかのような仕草でポケットからマッチを取り出し、登山道沿いの枯草に火を点けたのだった。火はすぐに他の枯草にも燃え移りしばらくの間山火事になってしまうのではと心配されてしまう程の勢いで辺り一帯に燃え広がっていった。そしてガイドの少年が燃え広がった炎を静かに眺めていたことが今でも強く印象に残っているのだが、少年が枯草に火を点した時間は後から思い返せば私が山頂を下りる前に最後に時計を確認した午前一時十五分からちょうど一時間ほどが過ぎた頃だったような気もするので、日本との時差を考えると阪神淡路大震災が起きた時間(注:2)と重なっていたかもしれないのだ。そして私自身はきっとあの少年は私と同じ日本人の多くが大災害に巻き込まれた瞬間を遠くインドの地で無意識に感じ取り、弔いの炎を焚いてくれたのであろうと今ではそのように理解しているのだ。 
その後地上に戻りガイドの少年にはアルナーチャレーシュワラ寺院の近くのまだ開いていたチャイ屋でチャイをおごってあげた。それから彼にお礼を言ってガイド料として事前に決めていた三〇〇ルピーを渡してからオートリクシャで柳田宅に戻り、二階のゲストルームで眠りについた。 
夜が明けて目が覚めた後、一階の応接室の柳田さんに会いにいくと彼はとてもソワソワしている様子だった。そして彼は私に「短波ラジオで聞いた日本のニュースでは神戸で大きな地震が起きたようで日本の家族が心配で連絡をとっているんだけれども、何度電話しても国際電話がつながらなくて困っているんだ」といったことを話し始めたのだった。 
この時期のアルナーチャラ滞在では、柳田さんの案内で柳田宅から歩いてすぐの場所にある通称ヨギと呼ばれていたシュリ・ヨギ・ラムスラトクマール(Sri Yogi Ramsuratkumar)のアシュラムも訪れた。柳田さんの話ではヨギはアルナーチャラのラマナ・マハルシ以来の偉大な聖者として知られていたそうで、「富豪が彼を見つけ出し彼のアシュラムが建立される以前のヨギは、アルナーチャレーシュワラ寺院の片隅でほとんど乞食同然の暮らしをしていた時期もあったそうだ」といったことも話してくれた。
私は柳田さんに案内されてこのアシュラムを訪れて以来、ヨギが肉体を去るまでの数年間のアルナーチャラ滞在時には必ず彼のアシュラムを訪れていたのだが、私が訪れた時の彼はいつもホールに集まった信奉者たちの前で何も語ることなく時に煙草をふかしたりしながらただ静かに座っているだけであった。しかしながらヨギの全身からは眩しいほどの光のエネルギーが湧き水のように深々と放射され続けていて、彼がラマナ・マハルシ以来の偉大な聖者であると言われていることが私にもよく理解できるように思えてしまっていたのだ。

(注:1) 古代の聖者ボーガナタル(ボーガル)はイダイ・カダルと同様に南インドの伝統で知られる十八人の偉大な聖者、マハー・シッダの一人として知られ、また中国の老子として知られる人物は中国人の肉体に化身したボーガナタルのことであるという説もあるらしい。

(注:2) 阪神淡路大震災が起こった時間は午前五時四十六分過ぎ、日本とインドの時差は三時間半でインドの現地時間は午前二時十六分過ぎになる。

南インド,ティルヴァンナーマライ アルナーチャラ山頂の猿 2014.1.26撮影
南インド,ティルヴァンナーマライ アルナーチャラ山頂の猿 2014.1.26撮影
公開日 2016年8月16日 火曜日 - 2018年8月28日 火曜日[更新]

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